建築士の会
これまでに行なった見学会や講習会の行事の報告をスナップ写真と共にお伝えいたします。
わくわく探検(駅前シリーズ)第19弾
2022/11/26
●日時  令和4年11月26日(土)
●集合  近鉄けいはんな線 吉田駅 改札 受付9:00 出発9:00~12:30
●講師  若松 博恵氏(元東大阪市教育委員会文化財課)
●コース ①中甚兵衛顕彰碑-②吉田川跡-③川中家と屋敷林-④諏訪神社-⑤藤戸家住宅-⑥藤井家住宅-
     ⑦吉原地蔵石仏-⑧水路の交差点-⑨栗原神社-⑩古箕輪八幡宮-⑪六郷井路・五箇井路-
     ⑫盾津飛行場跡・トラックターミナル-東大阪市役所 
●主催/(社)大阪府建築士会 「建築士の会東大阪」
●スタッフ/(社)大阪府建築士会「東大阪」幹事


開会セレモニー

近鉄けいはんな線吉田駅改札前のスペースで受付
開会式セレモニーは通行者に配慮して駅を出て適当なところで行いました
他の行事と重なったんですが、たくさんの参加を頂きました

中甚兵衛顕彰碑
 寛永16年(1639)今米村に生まれた甚兵衛は、河内各地の圧屋と諮り度々水害を引き起こしていた大和川の流れを石川との合流点より大阪湾まで、まっすぐ西に付け替えるよう幕府に再三訴えました。この訴えは、付替え反対運動もあり、なかなか受け入れられませんでしたが、堤奉行の万年長十郎に意見を具申するなど粘り強く請願を続けた結果、元禄16年(1703) 10月、遂に幕府も付替えを決定しました。

 この時、甚兵衛65歳、付替え運動開始から40年以上が経っていました。翌元禄17年(1704) 2月に開始された付替え工事では工事を監督する普請御用を勤め、工事完成後はその功績により苗字帯万が許されて中甚兵衛と名乗りました。翌年に剃髪し、法名の乗久を名乗り享保15年(1730)92歳で亡くなりました。
顕彰碑は、大正3年(1914) に河内一帯で陸軍の大演習があった際に、地元の功労者に叙勲があり、翌年中甚兵衛に従五位が贈られたのを記念して、有志により建立されたものです。
吉田川跡
 旧大和川筋の一つ玉櫛川は、近鉄花園駅付近で菱江川と吉田川とに分かれ、吉田川は今米村から深野池・新開池をとおって放出付近で再び菱江川長瀬川と合流していました。これらの川は上流から運ばれる土砂によって江戸時代のはじめには川床が上がりはじめ、付替え前の延宝3年(675)には川筋の方がまわりの田地よりも約3m高くなっていたことが記録されています。付替え後、吉田川は堤を切り崩して川床を埋め立て、新田となり、砂地であるため綿が多く栽培されていました。現在でも川跡は一段高い地形となって残っています。

川中家と屋敷林
 安永7年(1777)作成の家系図によると、川中家の初代は中甚兵衛の兄で大坂夷橋北詰堺屋の養子となった善右衛門でその子五郎平が吉田川敷に川中新田を開発したとされています。川中家には付替時の大和川流域を描いた「河内扇」や幕府役人と甚兵衛を描いた「大河内扇和川付替え成就御礼之図」などの史料が残されています。

 茅葺の主屋とその北側の離れ座敷は、平成18年11月29日に国の登録文化財となり、周りにひろがる屋敷林は市街地に残された貴重な自然、として大阪府緑地保全地区に指定されています。
 屋敷林は江戸時代より植生をほとんど変えずに存続し、燃料や堆肥供給や鑑賞・防風・防火のために常に人の手が入ってきた林であり、現在は、落葉樹のムクノキやエノキ、常緑樹のクロガネモチやアラカシなどの高木に、アキニレ・イスノキ・トベラ・クスノキなどの亜高木、ヤブツバキ・ネズミモチなどの低木、植栽されたウメ・モモ・サクラなどが混合し、これに草本類、キノコ類、コケ・シダ類やそこに棲息する小動物・野鳥・昆虫などが加わり、一つの生態系を構成しています。

諏訪神社
 神社に伝わる天文元年(1532)銘の「氏神三社興隆記」 によると、信濃国諏原之圧の住人諏訪連の子孫らが当地に村を聞き、諏訪大明神、稲荷大明神、筑波大権現の三社を勧請して建立したとされています。中央に諏訪大明神、左殿に稲荷大明神、右殿に筑波大権現をお杷りしたと記されていますが、現在はその中で諏訪大明神を杷る一社だけが残されています。
 覆い屋のなかに保存されている市指定文化財の本殿は、一聞社流造、柿葺きで、社殿の規模のわりに柱や梁などの部材が太く、木鼻の細部とともに室町様式をひくと考えられます。いっぽう、庇や身舎の周りに写実的な花鳥彫刻をもっ基股をいれるなど、桃山様式の華やかさも混在しています。
 しかしながら、海老虹梁に江戸初期の様式がみとめられ、部材の多くもこの頃のものとみられることから、室町時代末期に建立された後、江戸時代に大改修が行われたと考えられます。

藤戸家住宅
 建築年代は明らかではありませんが、当家過去帳に宝暦8年(1758)初代左多衛門亡とあり、遺構の古さと考え合せて18世紀前半頃の建築と推定されます。桁行11間、梁行6間の大規模な主屋は、桁行5間が居室部分、残りが土間部分です。居室部分は表から裏に式台を有する8畳の玄関、10畳の仏間、5畳のナンドが並び、その奥に10畳の次の間と10畳の座敷を配しています。これらの部屋の外部開口部分には4本溝の差鴨居を用いており、18世紀以前の古式の特徴と考えられます。
面白いもの発見!
境界プレートがこんなところに!大丈夫でしょうか??

藤井家住宅
藤井家の史料『寓覚帳』によると、この家は文久2年9月に43歳で亡くなった人が建てたと推定され、建築年代がわかる江戸末期の民家として市の文化財に指定されています。主屋は桁行9間(一部9間半)、梁行4間(一部4間半)の茅葺入母屋造りで、現在は茅葺を鋼板で覆っています。
 土間部分は居室との境に一間幅のヒロシキがのびており、土間の妻側には庭大黒柱より裏方に煙返し梁が架かり、もとはカマヤであったと分かります。居室部分は当初は食い違い4間取りであったとみられます。

吉原地蔵石仏
 像の高さl.7mの市内で、は最大の石仏で、大阪府の文化財に指定されています。
花崗岩の自然石に、舟形光背を刻み、その上に蓮華座に立ち、右手に錫杖、左手に宝珠をもっ地蔵菩薩立像を厚肉に彫刻しています。
 これと同じつくりの石仏は、鎌倉時代の元徳2年(330) の年号がある奈良市田原所在の阿弥陀如来像を刻んだ磨崖仏が知られており、様式上の類似から、吉原の石仏は年号がありませんが、室町時代初期の作品と考えられます。

水路の交差点
 大和川付替え以前の新開池内は、旧大和川によって運ばれた土砂によって埋もれ、近郷の排水池としての役割を失ったために、五箇井路や六郷井路を池内に掘り、先に掘削されていた徳庵井路に直接排水していました。新開池の南東端にあたるこの地で、五筒井路と六郷井路とは樋門を通して水路を交差させています。かつてこの場所に六郷井路を通って徳庵までの乗合船の船着場がありました。

古箕輪八幡宮
 新開池の南東に位置する古箕輪は、大和川付替えによって漁村から農村となった集落です。八幡宮の本殿は一間社流造、柿葺きで江戸時代の建築とみられ、境内の鳥居に寛保元年(1741)の銘、拝殿前の燈寵に明和5年(1764) の銘があることから、付替え後に整備されたことがわかります。
 八幡宮の北東の五筒井路にかかる橋は長者橋と呼ばれ、この場所が長者すなわち鴻池家が開発した鴻池新田の東端であることを示しています。
 八幡宮の拝殿内には、幕末から明治初めにかけて奉納された絵馬が残され、また境内には天保2年(1831)の「おかげ燈寵」が残されています。
季節的にはちょっと遅かったですが、お土産に参加者に種を頂きました
大事に育てたいと思います(^^)v

盾津飛行場跡
 昭和20年まで、盾津村(町)に飛行場(昭和9年開場)と錬兵場(昭和15年開場)がありました。笹川良ーによる国粋義勇飛行隊が操縦士及び機関士養成のために、用地を買収し、昭和9年2月~9月に整地工事を行い完成しました。完成後は陸軍に献納して大阪陸軍飛行場となり、操縦士養成の訓練やグライダー訓練などに使われましたが、もともと低湿軟弱な土地を、簡単に整地して草地の要所に砂利を敷いた程度の飛行場であり、雨や雪の日には飛行場の境界がわからなくなり場外に着陸することもあったようです。
 戦後は農地として開墾されたほか、兵舎と事務室は昭和22年4月に開校した盾津中学校の校舎として利用されました。その後、飛行場跡は昭和42年東大阪市発足時に東大阪流通副都心として計画整備され、トラックターミナル等に姿を変えました。
今は面影がありませんが、道路の角度が他とは違ってこの方向に滑走路があったことがよくわかります

秋真っ盛り、古地図とともに
 東大阪市役所で長い道のりもゴールとなります。秋真っ盛りで紅葉の中を暑くもなく寒くもなく散策には最適な心地よい気候でした。
 今回は新たな手法として古地図も資料に加えました。古き時代にタイムスリップした時間を体験できたのではないでしょうか。

クイズの解答と賞品授与

最後はいつものお待ちかねクイズの解答と賞品の授与です。
いつものようにこの時間は盛り上がります!
高齢の記念写真ですが、ピントがあってない方々多くて申し訳ありません。

では、発表でーーす!!(上位の方からご紹介です)

1等賞!!おめでとうございます(*^^)v

2等賞 3等賞
参加者の皆様、スタッフの皆様お疲れ様でした。
特に講師の若松先生、リーダーの竹田さんありがとうございました。