森田ポーランド紀行

ポーランド紀行

森田ポーランド紀行

今夜予定通り、ポーランドの旅より戻りました。リアルタイムに皆様に現地紀行をお送りしようとしたのですが、Wifiは問題無いようなのですが固定Lanでは繋がらず帰国後のご報告となってしまいました。明日から一日分ずつアップしていきます。
12月5日の夜にエミレーツで出発し、ドバイ経由のワルシャワ行きとなりました。ポーランドではトルン・ポズナン・ヴロツワフ・クラクフ・アウシュビッツ・ワルシャワと慌ただしいスケジュールでしたが中々、中身の濃い旅になりました。特に印象深いのは勿論アウシュビッツでしたがその他にもクラクフとワルシャワでのクリスマスマーケット、ワルシャワではショパンの心臓が納められている教会の柱や最後の暮らしの場であった住まい等を巡って来ました。
又ヴィエリチカ岩塩抗も期待以上に素晴らしいものでした。

ポーランド紀行1

ポーランド紀行1
12月5日(月)
午後8時40分に迎えに来たМKタクシーのスカイゲートシャトルに乗車。今回は10人乗りの車内に我々2人のみでラクラク車内である。関空に9時20分に着き、すぐにエミレーツにチエックインする。事前に(48時間前以降)ネットで搭乗券の発券を済ませており問題なくカウンターでは素早く処理をしてもらった。マイレージの会員カードを提示し帰国時分のマイレージ約5000マイルをチャージする。エミレーツ航空は2回の利用経歴が無いとマイルのチャージ処理をしてくれない。今回は関空~ドバイ、ドバイでトランスファーをしワルシャワまで行くのでこれで2回分の利用実績が認められるので、帰りのワルシャワ~ドバイ~関空が利用実績となる。その為今回の帰りの分から経歴に付くとの事。関空で通関も問題なくスルーし予定の登場時刻が少し早くなり、22:50に28番ゲートから搭乗開始する。エミレーツ航空は搭乗時間が厳しく、搭乗時間締め切りが離陸時間の20分前にはクローズしてしまう。
その後の搭乗は許可されない。搭乗時間が早くなっていたが実際の離陸時間は結果的には遅れて以前の定刻通りになり23:30に離陸する。

 エミレーツは比較的、座席間隔が広いので足は楽で、モニターもプログラムが充実している。映画や音楽のプログラムが数百位あるので映画も見放題だ。機内食のメニューも充実している。事前にネットで予約しておくとハラル料理やベジタリアンにも対応してくれるので喜ばれるらしい。特にイスラム教徒にはハラルが欠かせないので勿論全員こちらをチョイスされる。一般の料理より先に出される位イスラムの国らしい対応だ。飲み物もビール(国産以外にもドイツ・アメリカ産もあり)・ワイン・ウイスキー等々多数ありウイスキーとジンジャーエールや炭酸を頼んで割るなど楽しみ方、飲み方も自由で問題ない。食事内容も一般人用では全て2種のメインからチョイスする事になる。大体ライス付きメインに副菜、サラダ、デザート、チョコそしてジュースとパンといった内容だった。飲み物は何度頼んでも愛想良くまた赤ワイン2本と頼んでもすぐに出してくれた。食事が終わるとしばらくして照明が落とされるが、通路部分の天井に星座の様な効果を出して気分を落ち着かせる。ちなみにこの日の選んだメニューはカレイのソテーと炒飯にパン・デザート・マンゴープディングその他、朝食はパン・オムレツ豆料理の付け合わせ・ポテト・カットフルーツ・ブルーベリーヨーグルト・オレンジジュースその他といった内容だった。

 06:05(現地時間)にドバイ空港に到着。気温は24℃位らしいが日本の服装では滅茶苦茶暑い。しかし空港で着替えるわけには行かないし、乗り換えてワルシャワに着くと日本よりも寒いという気温的には厳しい変化である。但し着ていたコートはすぐに脱いで身軽にしていく。

12月6日(火)
ここから日付を変えて、ドバイについてみてみよう。ドバイ着陸前にブルジュ・ハリファが窓から見えた。さすがに高い。ドバイでワルシャワ行きに乗り換えるが搭乗券の発券は関空でワルシャワまでの分ももらっているので、ここの搭乗口は何番か確かめる必要がある。ドバイは広く大きいファブ空港なのでA~Cゾーンに分かれている。今回はB-17との事である。ここで気を付けなければいけ無いのが、ドバイでもチエックがあることである。関空通関後に水等を買って持ち込むと、ドバイで没収になってしまう。やはりテロ対策に躍起なのだろう。後で分かった事だが我々が滞在中にドバイでもテロがあったらしい。また靴も脱がされてのセキュリテイチエックであった。ドバイ空港のトイレでは小便器の横にシャワーノズルがあり、TOTOで学んだことを確認できた。便器のメーカーは当然TOTOであった事は言うまでもない。

07:20よりB-17番ゲートで搭乗開始し08:05離陸予定だったが、搭乗時間が1時間遅れる事になるとのアナウンスがあった。それで08:20に搭乗開始し09:10に離陸する。
 ワルシャワ到着の時刻も当然遅れて現地時間12時を過ぎてワルシャワ・ショパン空港に到着する。

13:40にバス乗車。外気温は-1℃位との事。ここからトルンまで直行する。途中トイレ休憩でSAで停まったついでにコンビニでお水とビールを購入する。そして出発。トルンは天文学者のコペルニクスの出生地である。ここはジンジャー・クッキー(ブレッド)が有名な食品である。これはショパンも好物だったとの事。16:00になると辺りは真っ暗。17:00にバスを降りて視察開始。
しかし4時過ぎと言うのに真っ暗になってしまい撮影のしにくい事致し方ない。ホテルが近いのであくる朝散歩がてらに再度撮影に旧市街に行こうと思う。途中ジンジャークッキーを購入したのは勿論。

 18:00にホテルメルキュール・トルン・ツエントラムに着、チエックインする。ポーランドは英語も通じやすいので楽である。
夕食はホテルのレストランで頂く。ここから旧市街中心まで徒歩約10分位。カササギが多く、街路樹の上に巣が見られる。SAで買ったビールを風呂上りに飲み最高!!12時に就寝する。

ポーランド紀行 2

ポーランド紀行 2

12月7日(水)
朝5時に起床。昨夕は真っ暗な中での撮影だったのでうまくとれていない。
それで早朝に起きて朝食後にすぐに街中に出て撮影したい。しかし早朝も真っ暗なので、昼食後に出発する事にした。朝食は6:30スタートなのでしっかり時間を守って6:25にホテル内のレストランへ行く。40分程で朝食を済ませてホテルを飛び出していく。旧市街地まではホテルから10分足らずで行けるので朝の冷気を感じつつ歩いて行く。ここトルンは天文学者のコペルニクスの生家もあり、13世紀にドイツ騎士団によって拓かれた街で14世紀から15世紀には商業都市として発展した。旧市街地は石畳に煉瓦造の中世都市の趣が溢れ出ている。ホテルを出て南に通りを渡るとすぐにヨハネパウロ2世の像があり、夜中でも照明が当てられている。コペルニクス大学、プラネタリウム聖母マリア教会と撮っていく。昨夜は旧市庁舎、旧市街広場と回り旧市街広場にある有名なお菓子屋さんで「ピエルニク」を購入する。これはジンジャー・クッキー(ジンジャー・ブレッド)の専門店でポーランドのお土産の中ではトップにランクするものでガイドさんもお勧めだ。それで30個ほど購入しホテルにまで運んだがこのジンジャークッキーは柔らかい食感だ。色々な種類(味)があるがプレーンなものが一番美味しかった。旧市街地地区の南側はヴィワス川が流れており、この中世都市に独特の風情を醸し出している。中世都市としては規模はかなり小さく、旧市街地内は小一時間あれば歩いて回れる広さである。ここでこの街の見所、建物をリストアップしてみよう。但し私が全てを見ているわけではない。

 コペルニクスの生家 内部は博物館になっており実際にコペルニクスが愛用した道具が展示されている(らしい)。

 プラネタリウム
 旧市庁舎      1931年に着工されたゴシック建築。何度も戦禍
           にあい、特色ある塔と屋根も18世紀初頭のスエー
           デン軍の放火の犠牲となった。現在、中は博物館。
 旧市街広場     旧市庁舎の前の広場。ここにジンジャークッキーの
           有名な店がある。ちなみにピエルニクはショパンが大
           好きだったというのは有名な話。

 聖母マリア教会   14世紀後半の創建。旧市庁舎よりも大きい。
 聖ヨハネ大聖堂   トルンに現存する教会の中で3も最古のもの(13世紀)。
 ドイツ騎士団城跡  ドイツ騎士団により建設。現在は廃墟、1454年
           トルン市民軍の蜂起に遭って殆ど破壊された。
 ジンジャーブレッド博物館 トルン名物のピエルニクの博物館。
 ピエルニクのお店  旧市街広場に面するコペルニック・トルンが有名。
 モナスター門    旧市街の南西角にある。
 民族博物館     
 ドミニコ会修道院  
 東洋博物館
 聖ヤコブ教会
 聖カタルツイーナ教会 ※トルンは街全体が世界遺産に指定されている。
 
朝の撮影では、ヨハネパウロ2世の像(彼はポルトガル人初のローマ法王)・プラネタリウム・聖母マリア教会・刑務所などを撮っていった。そしてホテルに急いで戻り、バスでポズナンに向けて出発。昼食はポズナン名物の「ブラツキ」でジャガイモでできたパンケーキの様な物。昼食後今度はヴロツワフへ向かう。まず100周年記念ホール(世界遺産)、市庁舎、旧市場広場等を暗がりの中で見て回る。その後今夜の宿舎「ノボテル・ヴロツワフ・セントラム ホテル」に到着。きれいなホテルである。夕食はこのホテルのレストランでバイキング。明日はクラクフに向かう事になる。

ポーランド紀行 3

ポーランド紀行 3 写真編 


030 ドバイ国際空港内 真夜中でも人が多く乗り継ぎ客で溢れています。特にショップでは金銀や装飾品の高級そうなお店が多いように思えます。移動は電気カートの様な乗り物で遠くに行くときは利用しております。多分有料と思いますが。



031 同じくドバイ国際空港



038 ドバイを飛び立った飛行機のウインドウ越しに見る828mのブルジュハリファだと思われます。機内では別に案内もありませんでした。日本なら絶対案内してるわ~と感じましたが。



041 ワルシャワショパン国際空港~さすがにショパンの生まれた国だけに空港名にショパンの名が付いています。ちなみにポーランドの有名人はショパン・キューリー夫人・コペルニクスです。



043 ワルシャワは雪だった。前日までは雪で、私たちの滞在中は気温が上がり過ごしやすかったです。日中は7~8度で夜中の最低は-1~2℃
    位でした。雪は道路には残っている状態ですが歩くには殆ど問題ありませんでした。

メールと一緒に送るべきだったのですがメールのみ急いで送ってしまいました。
写真の保存等に手こずりどんくさい事をしております。まあ徐々に慣れていくかとは思いますので暖かい目で見守って下さい。以前は貼り付けていたのに・・・
忘れてしもうた。
1月の委員会でスライドショーをします。
国際委員長:森田茂夫

ポーランド紀行4

ポーランド紀行4

12月8日(木)
 ホテルでの朝食後、バスに乗りポーランドの教徒と呼ばれるクラクフに向けて8:15に出発する。ポーランドのホテルの朝食はかなりレベルが高い。以前士会の研修旅行でドイツに行った時などはクラッカーやパンとコーヒー、紅茶と非常に質素な食事が続いたのでがっくりきたが、ポーランドは酪農と農業が主産業の国なのでチーズは毎朝多くのものが並び、ヨーグルトもソーセージやハム類も
種類が多い。ただ地理的な関係でブドウは採れないのでワインは地酒として殆ど出回らないらしい。
 古都クラクフにつき昼食のレストランへ。ここではビゴスというメニュー。これはパンの器にトマト味のボルシチの様な物が入れられオーブンで焼いたようなものだった。全体的に味は何処でも塩味と酸味が強い。関西人には辛い。このパンの器が結構、様にはなっていたが。昼食後、世界遺産のクラクフを観光。


691 聖マリア教会外観



626 聖マリア教会祭壇




629 聖マリア教会内部


聖マリア教会 内部の装飾がとても美しい。天井も非常に高いゴシック建築だ。
       細かい写真は撮れないので教会の横にある土産物屋さんで資料を買う。1222年築、特に15世紀に作られたファイト・シュトウス作の祭壇は国宝で撮影禁止だが、誤って撮ってしまった。モンゴル軍が攻めて来たときに急を知らせるラッパ手がこの教会の塔の上からラッパを吹きならしたが射られた矢が喉に刺さり、亡くなった。その時と同じく一時間ごとに今もラッパが鳴り響くが矢が刺さって絶命したその時と同じ曲の途中で演奏が途切れる。
ヴァヴェル城 ポーランドの首都だったので歴代のポーランド王の戴冠式が行われた城。多くの絵画も有する。皇族が使用していた豪華な住まい部屋が残されている。現在の城は16世紀のもの。色々見所は多いのだが見学先・施設によって見学可能期間や時間が異なる為、非常に観光し辛いガイド泣かせの場所だ。我々が行った時もレオナルド・ダヴィンチの描いたと言われる油彩が展示されていたがその部分の入場時間が少し過ぎていたため入れず。城の下には竜の洞窟と呼ばれる所もあるがそこまでは行けず美しい夕焼けに感動しながら退城した。





719 織物会館とクリスマスマーケット

中央市場広場 ここは昔、織物の取引所であった織物会館の前の広場である。今日はラッキーなことに昨夜のヴロツワフと同じくクリスマスマーケットが出ていた。織物会館の東側全域がマーケットになっていた。花屋やクリスマスリースを売るお店や雑貨にチーズ・ソーセージ等々多彩である。ヴロツワフではホットワインが飲めたがここは売っていない。またヴロツワフは小さな子供向けの施設もあったがそれもない。しかし店の数は多い。
旧市庁舎の塔 織物会館の南西角に建つ。旧市庁舎は1820年に取り壊されたがその際、この塔の実が残された。内部にも入れるらしいが別途入場料が必要。建物上部の時計は直径が3mもあるとの事。
旧織物会館  広場の中心に建つこの建物は昔の織物取引所だったもの。これを含むこの広場は4万㎡もある。内部は土産物屋が並んだモールの様になっている。地下には博物館があり2階はクラクフ国立美術館。地下には公衆トイレがあるが有料で1.5ズヴォチ、約30円程度必要。建物の長さは約200m。

915 ヴァヴェル城夕景


 ポーランドの各地は割合、公衆トイレが少なく有っても殆どが有料になっている。
無料のものはドライブインやレストランに有るものだけなので極力昼食時に済ませるのがベター。しかしこの街は本当にたたずまいが美しい。古都らしい面影、雰囲気が残っている。
添付 626 聖マリア教会祭壇
   629 聖マリア教会内部
   691 聖マリア教会外観
   719 織物会館とクリスマスマーケット
   915 ヴァヴェル城夕景

ポーランド紀行 5

ポーランド紀行 5
写真のみのデータです。
トルンはコペルニクスの故郷ですからプラネタリウムが古くからあった
のでしょう。
今回トルンではクリスマスマーケットの屋台のみで店は開いていません
でした。個々以後の各地ではクリスマスマーケットが開いていました。
クリスマスマーケットはドイツが有名ですがここポーランドも結構楽し
めます。特にヴュルツブルグの屋台でのホットワインはいけますよ。



171 トルンのプラネタリウム



490 ヴュロツワフぼクリスマスマーケット





515 同上

国際委員長:森田茂夫

ポーランド紀行 6

ポーランド紀行 6

12月9日(金)
 いつもどおり朝5時頃に起床し、6時30分よりホテルのレストランへ。
朝食をゆっくりととってチエックアウトはせずに連泊。今日は楽である。
7:50にロビーへ降りてバスに乗車する。
8:00アウシュビッツに向けてバスは出発。9:30頃にアウシュビッツ到着。なんとも重い空気が漂っている。ユダヤ人居住区はゲットーと呼ばれポーランド国内に1,000箇所以上あったと言われているが、そこからさらに強制収容所(絶滅収容所)に送られたという。東欧には数百万人のユダヤ人が住んでいたらしいが、特にポーランドにはポーランド系ユダヤ人が多く住みついていた。町の約30%がユダヤ人であったと言われている。その為ナチスドイツはポーランドにゲットーを造りそこにユダヤ人を強制移住させていった。ただゲットーはあくまでも居住区でそこは区域境界には有刺鉄線の塀を張り巡らされた。またそこにはユダヤ人のみでなくドイツ系ユダヤ人やオーストリア系ユダヤ人そしてロマ族(ジプシー)もゲットーに移住させられたという。アウシュビッツはゲットーから送られてくるユダヤ人の最終地である。ここで働いてお金を貯めて自由になった時に備えよという様な言葉で騙して強制労働をさせた訳である。ここアウシュビッツは小さな収容所であるがそれでも28棟の囚人棟があり、最大で28,000人も収容されていたという。当時の食事は朝と夕方の二回のみで摂取カロリーも極めて低かったという。この28棟が全て公開されているわけではない。ドイツ軍は撤退して行く時に、証拠隠滅の為壊していった。
死の壁と呼ばれる銃殺していた所などは後で復元したらしい。



946 アウシュビッツのゲート

 まずアウシュビッツに入る時にはゲートがあり、そこにはアイアンワークのゲートだがそこにスローガンが書かれている。ゲート上部に「働けば自由になる」と書かれているのだ。誰もそのような事を信じてはいない。それらもユダヤ人囚人に作らせたのだが、働くのアルバイトという字のBの字が上下逆になっており、これはせめてもの抵抗の証としてこのように作ったという。真偽のほどは定かではないが。ここは4号棟から入っていく。ここには当時撮影された写真や資料の展示があり、2階にはガス室に関する展示がある。殺人ガスに使われたチクロンBという劇薬もある。この棟は絶滅計画と呼ばれる。5号棟は犯罪証拠の棟だ。被収容者から没収した品々を展示。衣服・トランク・靴などが集められている。膨大な量だが恐らくこれでも一部なのだろう。義足や義手もあることから身障者も例外なく処刑されていった。
6号棟は周仁の生活を展示されている。7号棟は住居と衛生状態が分かる様になっている。各部屋を再現してあり、コンクリートの床の上にわらが敷かれている。粗末な3段ベッドが置かれている。10号棟と11号棟の間には死の壁と呼ばれる。この壁の前で数千人にも及ぶ銃殺が行われた。11号棟は死のブロックの展示で、ここで政治犯として有罪になった被収容者はここ11号棟から「死の壁」まで連行され銃殺されたという。

1015 「死の壁」



又この棟には懲罰の為の鞭打ち台や絞首台もある。地下には餓死牢や窒息牢、立ち牢等の監房がある。立ち牢と言うのは狭い監房に多くの人を詰め込み、立ったままにさせるもので、窒息牢と言うのは多くの人を入れて換気・給気は一切しなかったというものだ。屋外には見せしめで使ったのか集団絞首台も残されている。
ここで亡くなった人々は多くはガス室であるがそれら以外にも、銃殺・絞首刑、窒息死、餓死と多くの殺され方で亡くなっている。今でも展示で大量のメガネや頭髪等が置かれている。それら頭髪は織物にしてカーペット等に加工されたという。じっくりとこれらの棟を見ていくと1日はかかるであろう。
最後に焼却炉・ガス室に入る。遺体を焼いた焼却炉で後に大量のユダヤ人を一気に殺すために天井に穴が開いている。そこからチクロンBを投げ入れたという。焼却炉はかつては3台あったが現在は2台が残されている。当時は1日に340人の遺体が焼かれたという。ガス室の入り口側にある絞首台では、1947年4月16日にアウシュビッツ収容所の元所長であったルドルフ・ヘスの処刑が行われた。この後、ビルケナウに向かう。なお場内は原則的にはフラッシュを使わなければ撮影は可能だが、一部、頭髪を刈り集めた展示室などでは撮影禁止となっている。
※ビルケナウと言うのはアウシュビッツから約2㎞離れた所にある収容所跡でアウシュビッツ2とも呼ばれている。

添付写真
946  アウシュビッツのゲート
1015 「死の壁」

森田茂夫

ポーランド紀行 7

ポーランド紀行 7

12月9日(金)
 アウシュビッツを出て、バスで第2のアウシュビッツと言われているビルケナウに向かう。

1086:ビルケナウ

アウシュビッツからは約2km離れた所にあるが広大な敷地が広がっている。面積は1.4平方キロメートルで、ここでは300棟以上のバラックが建てられた一大殺人工場だった。敷地に入るには「死の門」と呼ばれるゲートをくぐって、右手には木造のバラックが建っている。内部には洗面とトイレの棟や寝室が再現されている。ここの寝室はまさしく木製蚕棚ともいえる3段ベッドである。死の門にはくぐり抜けてレールがまっすぐ敷かれている。そして線路が尽きる所に国際追悼碑が並んでいる。その脇にあったのは20カ国の小さな追悼碑が並んでいる。その碑文は各国の言葉で書かれており、いかに多くの国の人々が犠牲になったか物語っている。死の門の上部が展望室の様になっておりここから見ると、線路の端部付近にホームの跡らしきものが確認できた。ここまで列車で運ばれてきたユダヤ人たちは降ろされ、その場ですぐに殺す対象者か働かせる労働力として使役させるかを瞬時に仕分けしていったという。老人や小さな子供は労働力として期待できない為、即刻ガス室に送り込んだ。しかしガス室や主な建物は全て壊された。
ドイツ軍が撤退する際に証拠隠滅のため爆破して分らなくしていったらしい。ここは広いが故により一層、そこで行われた残虐な事実が心に刺さる。この感情は何と表現すれば良いのか、私には分らない。ここの死の門の隣には資料・書籍、絵葉書等を販売している。この資料は国際分科会の際に回覧したい。この広大な敷地の周辺はすべて高圧電流が流された有刺鉄線を張り巡らせた高いフェンスが取り囲み、衛兵が見張りとして立っていたという。なおアウシュビッツには専属の日本人ガイドが一人いる。常駐はしていないらしいが通年申し込みは可能との事。

 13:00~昼食を!!キノコのスープにポーランド餃子、デザートはアイスクリーム。
 14:00にバスでヴィエリチカ岩塩坑に向かう。


1277:ヴィエルチカ岩塩坑聖キンガ礼拝堂

ここも世界遺産である。この岩塩坑は地下64~325mにわたって複雑に入り組んだ採掘場の一部、約2.5㎞が公開されている。最初は三段になったリフトで下降し、そこから採掘された跡を見て回る。ガイドに連れられて地下の通路を進んでいく。一番の見どころは聖キンガ礼拝堂である。天井につくシャンデリアや壁面も祭壇・床までもが塩の決勝で出来ている。よくぞここまでと感心してしまう。内部には岩塩湖もあり浸みこんできた水を集めて排水している様子も見る事ができる。この岩塩坑は見学ルート以外の場所は現役の採掘場として活躍している。ここの岩塩は坑内では白色の脈と黒色の脈が混ざり合い不思議な様子である。
坑内は一年を通じて14℃で、夏場は寒く感じるだろうが、我々が行ったときは外部で5~6℃で坑内は暖かく感じた。結構見応えのある岩塩坑であった。17:00に見学終了。その後、ショップで岩塩商品を購入する。17:20出発。18:00から夕食タイム。今夜はポーランド風カツレツである。19:10に夕食終了。19:20バス出発。
メモ:岩塩坑やアウシュビッツ等の撮影地では入場料以外に撮影代を支払う事になる。教会の内部も同じである。事前に調べておく方がGoo!
添付 1086:ビルケナウ
   1277:ヴィエルチカ岩塩坑聖キンガ礼拝堂