建築士の会
これまでに行なった見学会や講習会の行事の報告をスナップ写真と共にお伝えいたします。
わくわく探検(駅前シリーズ)第21弾
八尾駐屯地から旧奈良街道
2024/11/24(日)
●日時  2024年11月24日(日)
●集合  JR大和路線 志紀駅  9:00
●講師  若松博恵氏(元東大阪市教育委員会文化財課)
●コース
1.八尾駐屯地記念行事エアーフェスタ2024の祝賀イベントー
2.弓削神社-3弓削道鏡-4.天王寺屋地蔵-5.制札場跡-6.渋川神社ー
7.安中新田会所跡 旧植田家住宅
●主催/(公社)大阪府建築士会 「建築士の会東大阪」
●スタッフ/(公社)大阪府建築士会「東大阪」幹事

JR志紀駅集合 開会セレモニー
今回の建築士会ウォーキングは、JR志紀駅から八尾駐屯地を経由し、八尾駅までを辿るルートで実施しました。
行程中、開催中の駐屯地エアーフェスタへ立ち寄り、例年の「大人の見学会」の要素を加えて企画しました。ヘリコプターの迫力や基地の空間構成を体感し、地域の文脈における駐屯地のあり方を考える、有意義な散策となりました。

八尾駐屯地記念行事エアーフェスタ2024
 大阪府八尾市空港1丁目81番地の八尾空港内に所在し、 中部方面航空隊等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。 駐屯地司令は、 中部方面航空隊長が兼務しています。 昭和37年に発足した駐屯地で、 防衛警備任務や災害派遣、 国際平和協力活動などを行っています。
 主な任務は、 ヘ リコプターによる人員や物資の空輸や航空偵察などです。 また、 風水害や林 野火災、 行方不明者の捜索、 救急患者空輸などの災害派や、防災訓練への参加など、 地域社会への支援にも取り組んでいます。 八尾駐屯地では、 毎年エア ー フェスタというイベントを開催しており、 駐屯地を一般開放して観閲式や観閲飛行、 訓練展示、 模擬売店などが行われます。 また、 盆踊り&花火大会も開催されます。

弓削神社 ゆげじんしゃ
 延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳で河内国若江郡に「弓削神社二座 大月次相嘗新嘗」と記載された式内社(式内大社)の論社として、大阪府八尾市内に次の2社がある。
 ・弓削神社(八尾市東弓削)旧若江郡東弓削村鎮座。 旧村社。
 ・弓削神社(八尾市弓削町)旧志紀郡西弓削村(弓削村)鎮座。 旧村社。
 両社は長瀬川を挟んで約300メ ー トル離れて鎮座する。 平安時代中期の『和名抄』には河内国若江郡に「弓削郷」の記載があり、 奈良時代の文書には河内国若江郡の人として「弓削宿禰伯万呂」が見えることから、 一 帯は古代氏族の弓削氏の集住地であったとされる。 弓削神社は、 その社名から弓削氏の氏神であったとされ、 付近では弓削氏の氏寺とされる弓削寺(のち由義寺)の所在も知られるほか、 弓削道鏡との関連で称徳天皇が由義宮(西の京)を営んだことも知られる。
 一帯は大化前代の軍事氏族の物部氏の支配地で、弓削氏はその配下にあって弓削部を管掌した伴造氏族であり、『新撰姓氏録』では忌部系氏族(天日鷲翔矢命)と物部系氏族(石上同祖)の二流の「弓削宿禰」の記載が見える。 なお八尾市域では、 同様に矢作部を管掌した矢作氏の氏神である矢作神社(八尾市南本町)の鎮座や、物部系神社として渋川神社(八尾市植松町)・跡部神社(八尾市亀井町)の鎮座も知られる。

弓削道鏡 ゆげどうきょう
 道鏡(どうきょう、 文武天皇4年(700年)?—宝亀3年4月7日(772年5月13日)以前)は、 奈良時代の僧侶。 俗姓は弓削氏 (弓削連)。 俗姓から、 弓削道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。 平将門、 足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある。 ただし、 瀧浪貞子 ・ 京都女子大名誉教授のように悪人説を否定する者もいる。

天王寺屋地蔵 てんのうじやじどう
 鎌倉時代末期の永仁五年(1297)の造立で、 八尾市内で最も古い石仏だそうです。 詳しくは八尾市の設置した説明碑がありますので、 そちらをご覧頂きたいと思いますが、 この石仏はかつて老原川と呼ばれた小川の石橋に使用されていたそうで、 明治時代の中頃に川浚えをした際に発見され、 安産に御利益があるそうです。
 あと、 この付近に鎌倉時代まで存在した「弓削寺」もしくは「五条宮」に関係のある石仏ではないかと言う事です。 それで、 この地蔵堂は奈良街道沿いに建てられていますが、 この場所は江戸時代、 旧長瀬川が新田開発された「天王寺屋新田」と呼ばれた開墾地で、 奈良街道は旧大和川である、長瀬川の縁辺を通っている事になります。

制札場跡 せいさつばあと
 制札場(せいさつば)とは、 江戸時代に幕府や藩の命令や知らせなどを立てておく場所です。 高札場(こうさつば)とも呼ばれ、 人通りの多い辻や橋のたもとなどにありました。 制札場には、 幕府や領主が決めた法度や掟書などを木の板札に書き、 人目にひくように高く掲げておきました。 封建支配者が庶民に法令を徹底させることを目的としており、 江戸時代に最も盛んでした。

渋川神社 しぶかわじんしゃ
 天皇から稲穀を賜る(続日本紀)とあり、 延喜式(927)には、 河内国若江郡に澁川神社二座とあって古代より澁川神社として祭祀されておりました。 とりわけ当地は旧大和川水系にあって、 度重なる洪水にみまわれ、 水難を免れることが悲願でありました。 そのため川を治める水神としても崇められてきました。 中世では植松大明神としてその神威を讃えられ(恒例修正月勧請神名帳)、近世では天神社として村民に親しまれてきました。
 宝永 元年(704 )柏原市で大和川が付け替えられるまで、 大阪湾に注いでいた旧大和川は、 永年の土砂が堆積して天井川と化し堤防決壊、 洪水の頻度が高くなっていました。「天文二年(1533)5月5日の暁の水害に竜華堤字大門と称する処より切り込み、 民家流失を言うも更なり。 氏神社も流失して二柱の神体、 水化より水上に獣くれに流れ上がるを、 氏人の一族漸くにして抱え揚げ奉護をなせり」(植松 ・ 林家文書)とあるように、 天文二年の大洪水は極めて激しかったようであります。
 それまでは元 の社殿は旧大和川の右岸(東側)に当たる川向(若江郡)現在の安中小学校東南附近に鎮座されておりましたが、 この洪水により社殿は言うまでもなく、 民家も多く流失しました。 これを機に植松村は旧大和川右岸の若江郡から左岸の澁川軍に移転し、 それに伴い神社も元亀三、 四年頃(1572))に、御幸地のお旅所のあった現在地に遷宮になったと言い伝えられています。

安中新田会所跡 旧植田家住宅 やすなかしんでんかいしょ きゅううえだけじゅうたく
 1704年の大和川付け替え後、 旧川床を利用して多くの新田が開発されまし た。 そのうちのひとつが安中新田です。 柏原市の安福寺が開発の中心であったために「安中新田」という名がついたと言われています。開発から50年ほどたった頃、 安福寺住職の類縁にあたる植田家が管理を任されることになり、 その後150年の長きにわたって新田の支配人を勤めました。 植田家が居住していた屋敷は、 会所としても使用されていました。「会所」とは新田の管理に使われた建物のことで、地域の寄り合いの場も兼ねていました。八尾市内のほかの新田会所(山本新田会所、 柏村新田会所)が現存しない 方で、 植田家の屋敷は増改築を繰り返しながらも、 昭和60年代まで実際に使用されていました。
 歴史的遺物である植田家の屋敷が、 土地、 所蔵資料とともに八尾市へ寄贈されたのは、 2005年のことです。
 一般公開にむけて行われた調査での最大の発見は、「安中新田分間絵図」でしょう。 絵図はタテ約1.5メ ー トル、ヨコ約6.5メートルに及ぶ巨大なもので、 正徳元年 (1711年)との記載があり当時の様子を一 今に伝える貴重な資料です。 絵図は市指定文化財に、 建物の 部は国登録有形文化財であると同時に市指定文化財になりました。 修復 ・ 整備を経て、 書画や工芸一 品、 河内木綿などの所蔵品とともに旧植田家住宅は 一般に公開されています。

クイズの解答と賞品授与
 最後は今年もお待ちかねクイズの解答発表と豪華?賞品の授与です
今年は自衛隊グッズもあってちょっと豪華な賞品になり盛り上がりました。
一等賞
2等賞
以下は上位の人から順に掲載